1時間半待ってでも見たかった『龍藏経』と、茶器の名品をめぐる一日
台湾中元帰省旅行も、いよいよ終盤です。
日本へ戻る前日。
「最後の一日は、どこへ行こうか」
いろいろ考えましたが、結局向かったのは、やはりここでした。
台北・国立故宮博物院。
台湾へ何十回、何百回と帰っていても、故宮だけは何度訪ねても飽きません。
しかも真夏の台北です。
外を少し歩いただけで汗が流れるような暑さ。そんな季節に、冷房の効いた館内で一日中、
中国数千年の美術品を見ることができる。
そう考えると故宮は、もしかしたら台北で最も贅沢な「避暑地」なのかもしれません。
ところが今回、入口からいつもと様子が違いました。
人、人、人。
原因は、話題の特別展、
「《龍藏經》:皇權・信仰・藝術的盛世交響」です。
2025年に開院百周年を迎え、2026年から「故宮100+」、すなわち第二の百年へ歩み始めた故宮。その中でも大きな注目を集めている展覧会です。
整理券を取り、並んで、さらに入口でも待つ。
結局、展示を見るまで一時間半近く。
「これは故宮か、それともディズニーランドか?」
思わず笑ってしまいました。
しかし、中へ入った瞬間、「これは並ぶはずだ」と納得しました。
300年以上前の「本」が、なぜこれほど豪華なのか
『龍藏経』は、普通の経典ではありません。
康熙6年(1667)、康熙帝の祖母である孝荘太皇太后の発願を背景に制作が始まり、康熙8年(1669)に完成したチベット語の仏教大蔵経『甘珠爾』です。
全部で108函。
経文は深い藍色をした磁青紙に、金を用いた泥金で一文字一文字書かれています。
しかも驚くのは、中の文字だけではありません。
上下の護経板には仏・菩薩・護法尊などが精密に描かれ、宝石による装飾が施され、さらに幾重もの経衣、五色の経簾、長い捆経縄によって丁重に包まれる。
一函だけでも非常に重く、故宮の研究資料では重いものは50キロ余りに達すると紹介されています。
つまりこれは、「読むためだけの本」ではありません。
信仰、皇室の権威、絵画、書、織物、金工、宝飾、装幀。
そのすべてを一つに集めた、清朝宮廷の総合芸術作品なのです。
茶を仕事にしている私が面白いと思うのは、ここです。
良い茶も、茶葉だけでは完成しません。
茶器、水、温度、空間、そして飲む人の心まで含めて、初めて一碗の茶になる。
『龍藏経』も同じなのです。
文字だけを読めばいいのではない。
紙、金、絵画、織物、包み方、置き方まで含めて、一つの世界をつくっている。
三百年以上前の人々が、物をつくるという行為に、どれほどの時間と精神を注いだのか。
展示ケースの前に立っていると、こちらまで背筋が伸びてきます。
そして私が足を止めるのは、やっぱり「茶器」
『龍藏経』を見終えた後は、上階の陶磁器へ。
ここからは、私にとって完全に「仕事半分、趣味半分」の世界です。
宋代の青磁。
汝窯、哥窯をはじめとする名品。
明清の陶磁器。
そして清朝宮廷文化を象徴する琺瑯彩、粉彩。
どれも教科書や写真集では何度も見ています。
しかし、本物を目の前にすると、写真とは全く違います。
釉薬の厚み。
器形の微妙な緊張感。
口縁の細さ。
高台のつくり。
光を受けたときの色。
茶器を見る場合、私はどうしても、
「この器で茶を飲んだら、どんな感じだろう?」と考えてしまいます。
特に今回、もう一度じっくり見たかったのが、康熙朝の宜興胎画琺瑯の茶器です。
宜興で焼かれた紫砂胎を宮廷へ運び、清宮の工房で琺瑯彩を加えたもの。
つまり、中国茶好きにとって親しい「宜興」という素材に、宮廷美術と西洋絵画的な表現が加わっている。
故宮所蔵品の中には、牡丹や芙蓉を立体感豊かに描いた海棠式茶壺などがあります。
紫砂壺というと、土の質感を生かした簡素な美を想像します。
ところが宮廷へ入ると、ここまで華麗になる。
同じ「茶壺」でも、置かれる場所が変われば、美意識まで変わる。
これが実に面白い。
『紅楼夢』の世界にも、茶がある
今回は「看得見的紅樓夢」の展示も見ました。
『紅楼夢』は文学作品ですが、茶を学ぶ人間から見ると、実は生活文化の宝庫でもあります。
誰が茶を淹れるのか。
どんな器を使うのか。
誰と誰が同じ卓を囲むのか。
茶を一杯出すという行為の中に、身分、礼儀、人間関係、美意識まで現れてきます。
壁いっぱいに広がる人物たちの生活場面を眺めながら、
「昔の人も、結局は茶を飲みながら話をしていたんだな」と思いました。
時代が変わっても、人間はそれほど変わらないのかもしれません。
故宮は「国宝を見る場所」だけではない
朝から入って、気がつけば何時間も経っていました。
仏教経典を見て、
書画を見て、
陶磁器を見て、
茶器を見て、
最後には売店や書籍コーナーまで見てしまう。
そして結局、また本を買って帰る。
これは私の故宮でのいつものパターンです。
重い本を抱えて帰りながら、「日本まで持って帰るのが大変だな」
と思うのですが、毎回買ってしまいます。
茶の仕事をしていると、茶だけを見ていては足りません。
陶磁器を見なければ茶器は分からない。
絵画を見なければ当時の生活は分からない。
歴史を知らなければ、なぜその茶が飲まれたのか分からない。
宗教や宮廷文化を知らなければ、器の装飾の意味も分からない。
だから私にとって故宮は、
「中国茶の巨大な立体教科書」でもあります。
台湾旅行で「故宮は一度行ったから、もういいかな」と思っている方。
ぜひ、もう一度行ってみてください。
展示は変わります。
そして自分自身の知識や経験も変わっています。
20代で見る故宮。
40代で見る故宮。
そして五代目の茶商として見る故宮。
同じ器でも、見えてくるものが少しずつ違います。
人生如茶。
同じ茶を飲んでも、その日の自分によって味が違うように、
同じ故宮も、訪れるたびに違った表情を見せてくれるのです。
台湾の暑い夏。
雨の日。
あるいは旅の最後の一日。
そんな日に、「今日は故宮に逃げ込もう」というのも、
なかなか贅沢な台湾旅行だと思います。
(文章・写真:林華泰茶行・日本華泰茶荘 五代目店主 林 聖泰)
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今日、台湾で話したことを、今度は日本の茶席で、
一杯ずつ皆さんと確かめていきたいと思います。

