――宋・蘇軾『望江南・超然臺作』
春先、その年の新茶に最初の湯を注ぐ。
茶屋にとって一年でいちばん心の躍る瞬間ですが、そのたびに決まって思い出す、
千年前の文人がいます。
北宋の蘇軾です。
春未老,風細柳斜斜。
試上超然臺上看,半壕春水一城花。
煙雨暗千家。
寒食後,酒醒卻咨嗟。
休對故人思故國,且將新火試新茶。
詩酒趁年華。
この詞は、蘇軾が山東の密州(現在の諸城)に赴任していた頃、城北の「超然台」で詠んだ作品です。
春は、まだ老いていない
詞は「春未老」――春はまだ老いてはいない、という言葉から始まります。
細い風に柳が斜めに揺れ、堀には春の水が満ち、城じゅうに花が咲く。
そこへ煙るような雨がかかり、家々を淡く包みます。
明るい花と、静かな雨。華やかさの中に、どこか寂しさも漂う景色です。
蘇軾の詞が長く愛されるのは、人の心を一色に決めつけないからでしょう。
春の美しさに心を動かされながら、同時に故郷を思う。
その二つは矛盾せず、胸の中に同居しています。
「故」から「新」へ
後半、酒から醒めた蘇軾は、思わずため息をつきます。
寒食節には火を用いず、明けてから改めて火を起こす習わしがありました。
その頃、蘇軾は自分自身にこう語りかけます。
休對故人思故國,
且將新火試新茶。
旧友を前に、いつまでも故郷を思い嘆くのは、ひとまずよそう。
新しく起こした火で湯を沸かし、今年の新茶を味わってみよう。
この二句の妙は、わずか十四字のあいだに、
「故人・故國」の〈故〉から、 「新火・新茶」の〈新〉へ、
言葉が切り替わっていくことです。
蘇軾は、故郷への思いを捨てようとしているのではありません。
寂しさを抱えたまま、火を起こし、湯を沸かし、茶を試す。
その具体的な所作によって、
遠くへ傾いた心を、そっと目の前の春へ戻しているのです。
一杯の中にある「超然」
超然台の名は、弟の蘇轍が『老子』の言葉を踏まえて付けたものです。
「超然」と聞くと、世俗を離れて何事にも動じない、特別な境地を思い浮かべるかもしれません。しかし蘇軾の超然は、現実から逃げることではありません。
思いどおりにならない場所にあっても、
身近な景色や日々の営みの中に楽しみを見いだすことです。
故郷にはすぐに帰れない。
それでも、台に登れば春の花が見える。
手元には新しい火があり、新茶がある。
「新火試新茶」は、単なる気分転換ではありません。
与えられた場所で、もう一度暮らしを始めるための、
蘇軾らしい知恵なのだと思います。
蘇軾の一杯は、抹茶に近かった?
ところで、蘇軾が味わった新茶は、いまの中国茶とは姿が違います。
当時盛んだったのは、茶を細かな末に挽き、碗に湯を注いで練り立てる「点茶」。
蓋碗や茶壺で散茶を何煎も淹れる現在の方法より、むしろ日本の抹茶の点て方に近いのです。この点茶がのちに日本へ渡り、抹茶文化の源流となりました。
評茶に携わる者にとって、「試茶」は香りや滋味、品種、産地、製茶の仕上がりを確かめる大切な仕事です。けれど専門的に分析する前に、まず「今年も新茶を迎えられた」という素直な喜びがあります。
この詞の新茶の産地や銘柄を特定することはできません。
それでも、初物を前にした心の弾みは、千年を越えて私たちにも伝わってきます。
現代の茶席へ
茶席に取り入れるなら、最初の一煎を淹れる前に、
こんなひと言を添えてみてはいかがでしょう。
且將新火試新茶 ひとまず、新しい火で新茶を試みましょう。
湯の音を聞き、立ちのぼる香りを待ち、ひと口目を急がずに味わう。
茶を淹れる時間は、過去を消すためではなく、
散らばった心を「今ここ」へ戻すための時間です。
蘇軾は「今を生きよ」と声高には説きません。
ただ、新しい火を起こし、新茶を試してみよう、と言いました。
心が遠くへ行きすぎた日は、まず湯を沸かしてみる。
寂しさをすぐに消せなくても、新しい火は起こせます。
その一杯が、私たちを静かに今日の茶席へ連れ戻してくれるかもしれません。
そう思いながら、私は今年もまた、春の新茶に最初の湯を注ぎます。
(文章・写真:林華泰茶行・華泰茶荘五代目 店主 林 聖泰)
出典:『望江南・超然臺作』は熙寧九年(一〇七六)の暮春、密州で詠まれたとされます。第三句には「看」を「望」とする異本があります。「新火」は寒食後に改めて起こす火のこと。宋代の点茶の作法は、蔡襄『茶録』や徽宗『大観茶論』に詳しく記されています。
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