評茶師から見た日本茶の「転換期」
三十年前、私が日本でお茶の講習会を始めたころ、日本茶の市場はもう急須から離れかけていると感じた。あれから三十年。いま世界は「抹茶ブーム」に沸いている。
だが結論から書く。台湾と中国の茶を扱い、評茶師として茶を鑑定する私の目線から見ると、この騒ぎの主役は――日本ではない。中国である。
そしてこれは、日本の煎茶が三十年かけて失いかけたものと、地続きの話だ。
農林中金総合研究所の報告書を、日本茶の外側にいる立場から読み直した。
数字は日本茶のものだが、私の目には、これは台湾茶が百年前に通った道の再演に見える。
順に、三つの層で書く。
第一層:ブームの主役は中国だ。
世界の緑茶生産の約9割は中国で、日本は3%にすぎない。
輸出はさらに極端で、中国が81.9%、日本は2.2%だ。
この非対称を頭に入れずに「抹茶ブーム」を語るのは、天気を見ずに傘の話をするようなものだ。
そして世界の「matcha」需要を、量で受け止めているのも中国である。
内陸の貴州省銅仁市は2018年に「中国抹茶之都」を名乗り、江口県に誘致された貴茶集団(Gui Tea Group)が単体で世界最大の抹茶精製工場を建てた。
中国全体の抹茶生産量は2025年に5,000トン超の見通し。日本の碾茶(抹茶の原料)生産量が約5,300トン(2024年)だから、仕上げの抹茶ベースでは、中国はすでに日本を上回っているとの見方さえある。
| 世界の緑茶(中国と日本) | 中国 | 日本 |
|---|---|---|
| 緑茶生産に占める割合(2023) | 89% | 3% |
| 緑茶輸出に占める割合(2024) | 81.9% | 2.2% |
| 抹茶(見通し/碾茶実績) | 5,000トン超(2025見通し) | 碾茶 約5,300トン(2024) |
| 増産計画 | 貴州省だけで抹茶8,000トン超・茶園13,000ha(2028目標) | ― |
しかも中国産抹茶は、すでにスターバックスやゼンショー、海底撈へ供給されている。
決定的なのはここだ――2025年上半期、銅仁市は日本向けに初めて抹茶を輸出した。
報告書も、緑茶輸入が2026年1〜3月に前年比2.4倍(中国が中心)と示している。
「海外の抹茶ブームに国内供給が追いつかない」日本の穴を、中国産が埋めに来ている。
抹茶ブームは、日本にとって追い風であると同時に、正面からの逆風でもある。
第二層:煎茶高騰は、勝ち組の話ではない。構造の悲鳴だ。
碾茶の荒茶価格は1kg 3,278円、煎茶は1,197円(2024年)。
碾茶が煎茶の2.7倍で売れるなら、農家は煎茶をやめて碾茶へ逃げる。
京都の茶商が「煎茶や玉露を作っていた人が碾茶へ行った」と語る通りだ。
異常さは末端に表れる。本来いちばん安いはずの秋冬番茶が、2025年は二番茶・三番茶を上回る異例の逆転を起こした(静岡茶市場)。荒茶の企業物価指数は164.1(2020年=100)まで跳ねた。
そして帝国データバンクの見出しが、いちばん残酷だ――
「製茶業の廃業、2025年は過去最多『抹茶人気』逆風に」。
ブームの果実は、製茶業には落ちていない。
私はこの匂いを知っている。
中国で西湖龍井が、プーアルの老班章が価格バブルを起こしたときと、同じ匂いだ。
橋渡し:しかし「品質が届かない」問題は、輸出のずっと前から、国内で三十年進んでいた。 冒頭の話に戻る。
私が講習会を始めたころ、日本人の手はすでに急須から離れかけていた。
自動販売機は人口当たり世界一(飲料自販機だけで約220万台)、
ペットボトル茶が生活を満たし、二〇〇七年には家計の茶飲料支出が
リーフ緑茶を追い抜いた。
いまや一世帯あたり、緑茶3,153円に対し茶飲料8,962円である。
これは一概に悪いとは言えない。
裾野は確かに広がったし、報告書もこの需要を成長の基盤に数える。
だが、失われたものもある。香りと味で違いを作る職人は、
大手飲料メーカーの広告予算とは戦えない。
しかも広告は「認知」は作れても、「この一杯はなぜ旨いのか」という品質の証明までは作らない。
品質が見えなければ、良い茶ほど価格で買い叩かれる――
これは経済でいう情報の非対称性そのものだ。
生葉農家は約12,900、それが仕上茶の事業者になると654、
消費者に届くころには茶の魅力は細く長い管を通って薄まっていく。
国内で三十年かけて進んだこの「価値が届かない」問題は、
いま世界で起きている“matcha”の偽装問題と、じつは同じコインの裏表なのだ。
第三層:転換期の本質は、量でも価格でもない。「翻訳」と「証明」だ。
評茶師として、はっきり言っておきたい。
世界で売れている「matcha」の多くは、日本人が思う抹茶ではない。
日本茶業中央会の抹茶の定義(覆下栽培の碾茶を茶臼で挽いたもの)には、
そもそも拘束力がない。世界では「matcha」はしばしば、ただの粉末緑茶を指す。
だから中国産・東南アジア産が「日本産」「宇治産」を名乗る偽装が起きる。
皮肉なのは、その「証明」を、中国のほうが制度で固めていることだ。
貴州省は2018年に『貴州抹茶』地方基準を出し、特級を官能指標とテアニン総量で規定し、残留農薬6項目を国家基準より厳しくした。「緑茶粉のようなまがいものを避ける」と明記している。日本の定義は拘束力なし、中国の基準は運用されている。
この一点は、正直、悔しい。
覆下栽培が何をしているのかを、評茶の言葉で言えばこうだ。
遮光でアミノ酸(L-テアニン)の分解を抑えて旨味を残し、カテキンの生成を抑えて渋味を減らし、葉緑素を増やして濃い緑を作る。この科学を説明でき、味で証明できる者だけが、「matcha」という空洞の言葉を「本物の抹茶」に翻訳できる。
三十年前に国内で壊れた“品質の物差し”を、もう一度お客さまの舌に取り戻す仕事
――それが評茶だ。
そしてこれは、私の連載がずっと言ってきたことだ。
台湾茶は百年前、輸出商品として世界に売られ、価格で買い叩かれ、衰退した。
そこから台湾は「味わう文化」――茶藝館――へ舵を切って生き延びた。
日本の煎茶は今、同じ分岐点にいる。
量で貴州と競えば負ける。
勝てる堀はひとつ、茶の知識と、文化への翻訳だけだ。
希望はある。
バンコクの日本茶専門店は、抹茶を入口にした客がほうじ茶や煎茶へ、
さらに体験や文化へ進むのを見て、2026年に茶室を増設した(JETRO調査)。
六大茶類を揃え、淹れ方を教え、産地の物語を渡す――
華泰茶荘が日本でやっていることそのものだ。
抹茶ブームは、日本茶にとって最後のチャンスかもしれない。
量で負ける前に、文化で勝ちに行けるかどうか。
それが「転換期」の意味だと、私は読む。
次回は、その「文化で勝つ」の具体――
一杯の外側にどう価値を積むか、華泰茶藝館モデルの内側を書く。
知れば、また飲みたくなる。
飲めば、また誰かに語りたくなる。
語れば、またどこかで茶縁が生まれる。
またどこかの茶縁で、お会いできますように。
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